たゆたう

愛を叫んだり考えたり悩んだり、のあいだでたゆたうように生きている

ゴッズ・オウン・カントリー

ゴッズオウンカントリーを観た。性別というか、もはや相手が人間かどうかさえ関係ない、恋愛とか性愛とか家族愛とかそんなくくりを越えた愛をえがいた映画だった。以下ネタバレありの感想。

 


映画『ゴッズ・オウン・カントリー』予告編

 

ヨークシャーが舞台の評判のいいゲイ映画、というのがこの映画の鑑賞前のイメージだった。ゲイ映画はほとんど観たことがなかった私は、ゲイ映画ってどんなものなんだろう、まあでも大好きなヨークシャーが舞台なら内容はどうあれ背景に映る景色だけでも幸せになれるな、などと思いながら映画館に足を運んだ。

主人公ジョニーはヨークシャーの田舎の牧場での暮らしに鬱屈とした思いを抱えながら生きている。酒とセックスにおぼれた生活。牧場の仕事への姿勢も投げやりで、出産間近の牛も放置して死んだ目で夜遊びに出かけていく。都会に出ていった友人にもposhと吐き捨て、俺は現実を見て牧場に残ってるんだと見下したような態度をとる。前半のジョニーから感じるのは、一貫していらだちや屈折、自己中心感といった、いわば負の感情だ。牧場の仕事はあくまで身体が不自由で口うるさい父親にやらされている義務であり、友人に当たるのはうらやましさの裏返し。自分のため、自分のストレス発散のためにしか動かない。一夜の相手を省みることもない。ゲオルゲのこともジプシーと馬鹿にしたように呼ぶ。仕事が特別面白いわけでもないし遊びも限られているし父親はうるさいし、出ていきたくても家庭の現実を考えるとそうも言っていられない……全体的に画面も暗く泥臭い感じで、ジョニーの屈折っぷりが伝わってきた。

しかし後半のジョニーは違った。倒れた父や動物のために自ら行動を起こし、牧場の今後について自分から考え、出ていったゲオルゲを(おそらくルーマニアまで)コーチに乗って迎えに行く。他者のために自分から行動できる人物になっている。住んでいる場所も、仕事も、彼を取り巻く状況はなにも変わっていないのに。

その転換点となったのがゲオルゲとの出会いだ。ゲオルゲはジョニーとは対照的に愛にあふれた人物として描かれている。口数が多いわけでもとりたてて明るいわけでもないが、死にかけの子羊を救い、ジョニーの傷の手当てをし、手袋を貸そうとし、ジョニーの父親が倒れたときには茫然自失のジョニーの指先にふれて励ます、そんなことを自然にできる人物。
ゲオルゲというキャラクターの描写としては子羊の蘇生のシーンが印象的だ。無駄だというジョニーを無視して、ドロドロの子羊を汚れるのも構わず抱きしめ、さすり、息を吹き込んだ。前半の牛の死産のシーンときっと対になっているのだろう。ジョニーは死んでしまった子牛を八つ当たりのように撃ち、蹴り飛ばしさえしたが、ゲオルゲは諦めなかった。さらに別のシーンでは死んでしまった子羊の皮をはいで他の子羊にかぶせてやっている。死んだ子羊のことを思うと一見残酷だが、他の子羊にも視線を向けたうえでより適切な選択のできる冷静なあたたかさを彼は持っている。

そんなゲオルゲにジョニーは惹かれる。最初のその感情の発露はある意味彼らしい、無理やり押し倒すという手段だったけれど、ゲオルゲはそうではない。求められれば応じるけれど、ジョニーを抱きしめ、身体を撫で、キスをする。ゲオルゲがジョニーに対して抱いているいとおしさが伝わってくるかのような手つきと視線から、やはりゲオルゲの愛情深さを感じる。
ゲオルゲと気持ちを通わせていく中で、ジョニーのゲオルゲへの接し方も変わっていく。ハグもキスも知らなかった、ただレイプ犯のように相手を押さえつけて入れて出すだけだったジョニーが、ゲオルゲと抱き合い、ほほえみやキスを交わす。出ていったゲオルゲを追いかけて旅をし、言葉足らずではあったがゲオルゲが必要だと伝える。

ジョニーだけでなく、背景に広がるヨークシャーの景色もまた、ゲオルゲと心を通わせる過程でがらりと姿を変えた。太陽の光でなんともいえない美しい色合いに染まる春の草原と淡い色の空のコントラスト、清らかな水の流れ、スイセンの花。あれほど重苦しく暗い色だった世界が愛する人の存在によってこんなにも美しく変わるのだ。そのタイミングで劇中で初めて流れるBGM……この演出はずるい。


この作品の肝はきっとふたりの恋の成就という単純なかたちではないのだろう。ゲオルゲと出会ってから、ジョニーはゲオルゲを、家族を、牧場を想い、大切なひとやもののために動くことができる人物になった。この作品の愛とは周囲を想い、周囲のために行動できることなのだ。性的指向がなんであろうと、性愛という感情をもたない人であろうと、そんな想いのかたちは変わらない。

(素敵だなと思ったのは、作中でキャラクターのセクシャリティが原因となるような展開がいっさいなかったこと。別にカミングアウトして周囲もそれを受け入れているわけではないかもしれないし、おばあちゃんが使用済みのゴムを見つけて涙するシーンがあったことから同性愛に好意的とまでは言えないのかなとは思ったけれど、ジョニーもゲオルゲも自分がゲイであるということで苦悩したりそれが恋の障害になったりというストーリー展開ではなかったことが嬉しかった。ゲイ同士だからこそのストーリーではなく、ストーリーとしては普遍的なものでたまたま主人公たちがゲイ同士だったという印象を受けた。それだけセクシュアルマイノリティの受容が進んできているのだろう。)

 

結局、ゲイ映画とかそんなことはそれほど意識しなかった。これは人間の愛の物語だった。ヨークシャーのムーアに満ちる朝日のように静かでやわらかであたたかい愛がそこにあった。