たゆたう

愛を叫んだり考えたり悩んだり、のあいだでたゆたうように生きている

ファンでいるということ

ひと月ほど前に読んだブログの記事に、自分が老害ファンだと気づいてしまったひとの話がある。

それを読んで自分のファンとしてのありかたや推しに対する自分の姿勢についていろいろと考えたので、自分の考えの整理のためにここに記しておこうと思う。

 

 

 

※念のため。以下の文章はあくまでも私個人の意見の表明であり、異なる意見を排斥することを目的とするものではありません。それは違う、と思ったら反論もリムーブブロックもご随意にどうぞ。ただし、いただいたご意見に反応するか否か、するとしてどのような反応をお返しするかを決定する権利はこちらにもあることを先に申し上げておきます。

 

以下本文。

 

 

 

コブクロを応援してずいぶん経つが、私や他のファンたちよりもずっと、コブクロ自身がコブクロを愛しているのだろうなと思う。より正確に言えば、小渕さんは黒田さんの、黒田さんは小渕さんの、いちばんの相棒であり理解者でありファンなのだろう。

 

たとえば小渕さんはファンからの「いつの時期の黒田さんの声がいちばん好きですか?」という質問に、「そりゃ今でしょ。いつでも今でしょ」と恥ずかしがる様子もなく当然のように即答している。

 

それを見て、私はだれかのファンであるとはこういうことなのだ、と思った。

いつでも今のあなたが最高で今のあなたが大好きだと堂々と言えるのが愛情なのだろうと。

 

しかし、それはただの綺麗事だということもわかっている。

どんなに大好きなひとでも欠点が目につくことはあるし、変わってしまったな、前のほうがよかったのに、と思ってしまうことだってある。

反対に、「いつでも最高」が行きすぎて、欠点から目を背けて狂信的に愛し続けることはむしろ危険だということも知っている。欠点を指摘できてこそファンだ、と考えるひとの気持ちもわかる。

 

 

さて、冒頭ではコブクロの話をしたが、私はラーメンズというお笑いコンビのファンでもある。

コブクロラーメンズは二人組という点では同じだが決定的な違いがある。

それは、コブクロが「二人でやらないと意味がない」という考え方で活動しているのに対し、ラーメンズはかなり前からコンビとしての活動を実質的に停止して、それぞれソロでの活動に力を入れていることだ。

 

(ただ、コブクロの方がコンビ愛に溢れている!とか、そんな短絡的な主張をしようという意図はない。

二人一緒に活動してこそ魅力を最大限に発揮できるひとたち、個人個人の方が強みを活かせるひとたち、いま集中したいことが同じひとたち、いまは別々の世界で力を発揮したいひとたち、いろんな決断のかたちがあるだろう。だいたい愛情というものは物理的距離の近さや一緒に活動する頻度だけで測れるものでもないと私は思っている)

 

ともかくラーメンズのふたりはそれぞれ自分のフィールドで活躍しているのだが、コンビとしてのラーメンズをきっかけに片桐仁小林賢太郎を知ったというひとも多いためか、はたまたラーメンズが明確に活動休止やら解散やらを宣言しているわけではないという背景のせいか(おそらくその両方だろうが)、「ラーメンズはいつコンビでの活動をするのか」と切望する声も多い。

 

個人的にはそういった声は主に小林賢太郎のほうに向けられがちだという印象を持っている。

コンビ内でも脚本・演出を務めていたせいなのか、小林賢太郎が新たな作品を発表するたびに、「楽しみ」という声とともに「ラーメンズも…」という声を耳にする。

作品を発表するタイミングだけではない。たとえば共演者とのツーショットがWEB上に載せられただけでも「片桐さんは?」との声が相次いだ(少なくとも私のタイムライン上では)。

 

彼はきっと「この作品へのお客さんの反応はどうかな」と思いながら舞台に立っている。

なのに、何をやっても結局は「ラーメンズは?」と言われてしまう。

何ヶ月もかけて創り上げた作品なのに。

まるでラーメンズのコンビとしての活動が行われていないことの責任は彼にのみあるとでも言うかのように。

 

そんな彼のことを私はどうしても考えてしまうのだ。

 

推しに変に過去に囚われてほしくはないし、推しの新しいチャレンジをいつでも応援していたいし、よっぽど非人道的なことをしない限りはいまの推しをありのまま受け入れていたい。

いいじゃないか、推しがいまを楽しんで生きていたら。

そう思いながらタイムラインを眺めたことも一度や二度ではない。

 

その一方で、小林賢太郎に対して「ラーメンズは?」と言いたくなる気持ちも痛いほどわかるのだ。

KKTVのゲストが発表されたときも、カジャラのメンバーが発表されたときも、別の俳優さんとツーショットを撮っていたときも、「小林賢太郎の『本』公演」というイベントタイトルを目にしたときも、心のどこかでがっかりしていた。相方はどうした、と言いたくなった。ラーメンズの本公演まだかな、という気持ちだって常にある。小林賢太郎のブログや片桐仁Twitterに相方の名前が出たりはしないかといつだって淡い期待をもっている。

私自身、片桐仁小林賢太郎個人のファンであると同時に、やはりラーメンズというコンビのファンでもあるのだから。

ふたりのソロ活動はもちろん否定しないが、ラーメンズというコンビとしての活動もずっと変わらずしてくれていたらよかったのにと思ったりもする。ふたりでしか活動しないと公言するコブクロをずっと見てきたからか、そのような関係性をついラーメンズにも期待してしまうところがある。

 

それでもやはり、私は「ラーメンズは?」を繰り返すだけのファンでいたくはない。

小林賢太郎ラーメンズのコントを生み出すための機械ではないのだから。

 

私は、推しはコンテンツではないということを忘れたくない。

 

少し話はずれるが、最近追いかけているとあるYouTuberの動画に対するコメントを見ていても同じことを思う。

どんな感想を抱こうがそれを否定することはできないが、感想を抱くことと、それを本人たちさえ目にするパブリックな場に公開することはやはり違う。

たとえば、出演者たちがじゃれあっているシーンを過剰に取り上げたコメントや、動画の内容ではなく一部の出演者の容姿だけに言及するコメントを見るたび、「本人たちはこんなこと言われても困るだろうな」「本人たちが動画を通じて提供したい価値はそこではないのにな」とつい思ってしまう。同じひとを推しているはずなのに、そういったコメントを残すひとたちと同じひとを見ていると思えない。

 

本来の意図と違う感想を抱くこと自体は否定されるべきではないが、それを本人たちの目に晒すことは、「あなたがいま見せたいものに私は興味がない」と宣言しているかのように私には見えてしまう。そんな意図はないとは思うのだが。前述の小林賢太郎の件においても同様だ。

 

推しはコンテンツのために存在し行動しているわけではない。推しはコンテンツを生み出してくれはするが、推し自身がコンテンツであるわけではない。好き勝手な言葉を投げつけていいわけではない。「画面の向こうにいるのは人間」なのだ。人間なのだから変わることもある。いい方向に変わることも、悪い方向に変わることもある。だがその変化にケチをつけられるほど私たちは偉くはないのだ。

 

有名人とそのファンという関係性においては有名人の方が偉い、だからケチをつけてはいけない、と言いたいのではない。基本的に人間は他人にケチをつけられるほど偉くない。推しがどんな決断をしようがそれに文句をつけて変えさせる権利は私にはないし、逆に私が推しの決断に反対しファンをやめたとしても、推しに私の決断を変えさせることはできない。

 

私たちが愛する推しは生身の人間で、私たち自身も生身の人間で、それぞれ違った価値観をもっている。だからお互いがお互いの思い通りに動かないというのは基本的にどうしようもないことなのだ。

 

とはいえ、私だって好きなひととの価値観のずれを感じてしまうのはつらいし、理想としていたものが理想のかたちでなくなるのは怖い。推しがなにを考えているのかわからなくて悲しくなることもあるし、推しの発言や行動に対して、こんなのいやだ、と感じることもある。過ぎた話だが、飽きたとか冷めたとかではなく、どうしてもこの人の感性は自分に合わないからもう追いかけるのはやめようと決めた経験も実際にある。ファンならすべてを受け入れるべきだ、なんて思わないし、思えない。

 

それでも私は「今のあなたが好き」を最後の最後まで貫いていたいのだ。小渕さんのように堂々とは言い切れないかもしれないけれど。疑問に思うことや変化を実感してしまったりすることがあっても、「あなたのこんなところはちょっと嫌だけど、こんなところは好き」と言いたい。

 

推しは変わるし私も変わる。推しがずっと「私の好きな推し」でいてくれるわけではないし、私だって自然に熱が冷めたりすることもあるだろう。それを素直に受け入れて、ネガティブな感情から無理に目をそらすことはせず、でも「好き」にちゃんと目を向けて追い続けていたいと思っている。